史跡・西南の役戦没者墓地
西南戦争

     西南の役

明治6年10月25日、明治新政府から下野した
西郷隆盛は、鹿児島に帰り士族や子弟を集め
「私学校」を開設した。
ところがその私学校は、次第に政治結社の様相を帯び、私学生の中から「鹿児島は中央政府の意のままにはならない」と主張し、半独立国家のような存在になっていた。
一方、大久保利通は政府に抗する鹿児島を改革するため、鹿児島の弾薬や武器を大阪に移したり、廃刀令、金禄公債証書の発令等、士族の特権を締め付ける政策をとる等、離間工作を指示した。
これらの政策に士族の不平不満は最高潮に達し、私学校の生徒達との間で騒擾事件が頻発、ついに西郷も私学校の生徒を押さえることが出来ず青年達の声に担がれ、明治10年2月15日、兵力は3万人(内、私学校員1万3千人)を以て挙兵、西南戦争へと突入した。

我が郷土、那珂郡福島(現串間市)は廃藩置県後の府県変遷で、鹿児島県に併合鹿児島第十大区(福島区)に所属し区長は、高鍋藩士 坂田諸潔であった。坂田は西郷軍挙兵と同時に「福島区民は西郷に従うべし」と発し、区内の士族や平民を纏め徴兵した。
そして坂田は自ら軍長、参謀 山下謙蔵小隊長 日高義正として隊を編制し、
一次出兵2月27日20名、続いて
3月31日61名、4月12日46名、6月29日77名
等が出兵し、那珂郡福島から総合計324名が参戦している。

西南戦争では熊本城・田原坂・山鹿そして宮崎での激戦で敗戦、我が福島(串間市)も7月30日官軍の手に落ち、西郷軍は退却を余儀なくされ、西郷隆盛は城山で官軍の総攻撃を最後に9月24日洞窟で自刃した。(串間史より)

西郷隆盛の墓所は鹿児島市の南州墓地にあるが、我が郷土の戦死者墓地は串間市西方の福島小学校の西側真向かい(津曲書店横)の高台に「史跡・西南の役戦没者墓地」があります。
墓地には34の墓石があり、中央に小隊長日高義正さんの墓石があります。
また地域の方の話しによると、正面右端の深江専一郎さんの墓石は、政府軍として戦った深江助九朗さんの息子であるとのことで、父が官軍、子が西郷軍には入り共に戦死し、分かれて祀られているということでした。
その父親(深江助九朗)の墓は、福島小学校の東側(串間市西方)剣刃城跡に政府軍墓地がありました。