足利三代将軍・足利義満の子)
大覚寺足利義昭 串間の地で抹殺される

大覚寺義昭(だいかくじ・ぎしょう)は、室町幕府三代将軍足利義満(金閣寺建立)の五男である。

また、四代将軍足利義持は異母長兄である。

五代将軍足利義量は、義持の子だったが、18歳で死去。

そして、六代将軍の後継は、籤で選ぶ事になり、結果、異母三兄(義円・青蓮院門跡)の足利義教が当て六代将軍となる。

1437年、籤に外れた義昭は大覚寺を出奔し、反旗を翻す。

義教は義昭が南朝方と結託するのを恐れ捜索を始める。

義昭は櫛間(串間)の野辺氏(地頭)を頼り永徳寺にかくまって貰う。

島津一族が櫛間に潜伏している事を将軍に通報する。

義教は島津忠国に追討を命じる。

1441年義昭は忠国らに永徳寺を包囲され自刃して果てる。
                  

富春山「永徳寺」
富春山「永徳寺」   串間市北方羽ケ瀬  
                     
大覚寺義昭が足利六代将軍義教に追われ櫛間の野辺氏(地頭)を頼って匿って貰った所が「永徳寺」である。
永徳寺には唐の国から流れ着いたと言い伝えらている市指定有形文化財「木造薬師如来立像」が安置されていま
す。

大覚寺義昭の宝篋(ほうきょう)印供養塔
永徳寺の墓
 
「永徳寺」の墓地  北方羽ケ瀬  

大覚寺義昭が足利六代将軍義教に追われ永徳寺に身を隠し、挙兵を急ぎ肥後の南朝方に密書を送ったが送ったはずの密書は幕府を通じて義教のもとに届けられていた。
義教は、島津忠国に義昭を捕え、首を京都に差し出すようにとの幕命を下した。
そのため、義昭は島津氏に包囲され敢無く自刃したと伝えられている。
永徳寺の南側の小高い杉山の中に永徳寺の墓地がありその中央に宝篋印塔大小2基があり永徳寺の歴代住職が大覚寺義昭と主従源澄の墓として供養されていま
す。

大覚寺義昭ゆかり
ひで神様

大覚寺義昭ゆかりの「ひで神様」
              串間市南方


大覚寺義昭と僧源澄の死体が福島川に捨てられたと言われており、現在下流の丘陵にある二対の墓は「ひで神様」として祀られているが、「ひで神様=大覚寺義昭 主従源澄」の墓であるとされています。
この「ひで神様」は金谷小学校西側にあります。

大覚寺義昭の供養塔
第三の墓
 

大覚寺義昭の「第三の墓」
      串間市西方上郡元


大覚寺義昭の墓は代々金谷神社の神官をしていた鈴木家の本家が守ってきた。昔、首のない義昭の遺体が川の岸辺に流れ着いているのを見つけ鈴木家の先代が手厚く葬り同家の屋敷内に墓を建ていたが、現在は、 、串間市上郡元の福島川を挟んで永徳寺が真向かいに見える、「泰養寺跡」の畑の中(福島高校から南東へ約500メートル地点)に高さ1メートルの墓1基が建てられている(墓には足利義昭・嘉吉元年三月十三日死と刻字)

福島大明神 金谷神社
大覚寺義昭 慰霊のため建立された金谷神社


    金谷神社   串間市南方

大覚寺義昭の首は義教に届けられ追討にあたった 島津忠国らに恩賞の太刀が贈られ、島津にとっては名誉であったが、同時に後々まで義昭の祟りが恐れられたことから、後に義昭の慰霊のため朝廷に「福島大明神」の神号を賜り金谷神社を建立し祀ったとされています。
この金谷神社は、福島大橋の南詰めにあります。